アラカルト

蹴裂伝説の真相

震災から23年。ご冥福をお祈り申し上げますとともに 被災された方々に 心よりお見舞いを申し上げます 。当時東京のディスプレイ会社に勤めていましたが、縁あって会社が設計した多くの文化施設の被災総合調査をさせていただきました。その時に驚いたのは、兵庫だけではなく大阪市立科学館の天井に設置していた展示モニターがほとんど外れ床に散乱していたことでした。大阪でもそれだけの被害があったのです。地震発生が昼間で、下に子供がいたら大変なことになっていたろうと思います。その後、吊りモノの展示についてはかなり注意したのを覚えています。うちが展示をしてはいないのですが、科学館のすぐ近くにある東洋陶磁美術館では借り物の陶器が無残な状況に。被災後、国内でいち早く免振装置を導入したのは東洋陶磁美術館でした。災害とは、ほんとに忘れた頃にやってきます。いつもあの日のことを教訓に日々の生活をしたいと思います。ところで、ちょっと前に亀岡の洪水のことを少し書きましたが、関連する本が届きました。『蹴裂伝説と国づくり』。私が疑問に思っていたことを、30年かけて調べ上げた方がおりました。上田篤先生です。同じ展示学会に所属している建築を専門とする先生ですが、文化史にも関心があり幅広い視点で研究をなさっています。ただ、まさか蹴裂伝説を研究されているとは夢にも思いませんでした。奇遇な出会いです。蹴裂(けさき)伝説とは、全国各地に残る伝説で、巨人が土地を蹴ったり裂いたりして国土を開くというものです。もちろんそんな巨人がいたわけもありませんので、何らかの力が働いたとしか思えません。なぜ亀岡で大洪水が起きるのか。いろいろ見ていく中で、もっとも疑問に思ったのが「保津峡の入口で大水がでると逆流現象が起きる」ということでした。最初はそういうこともあるのかと地質のことが分からないのでスルーしていましたが、考えれば考えるほど不自然に思うようになり、歴史事象を調べる中で蹴裂伝説が浮かびあがり、ハタと気が付きました。そう、亀岡盆地は湖だった。上田先生は古墳や遺跡の位置から湖の範囲を想定しています。恐らく、現代でも歴史学や土木学でこの論は受け入れられないかも知れません。しかし、明確な文献がなくとも状況証拠の中から歴史を比定していく作業もできるのではないかと考えます。恐らく弥生時代か古墳時代に保津峡は掘削工事がなされているはずです。そのことで盆地の水を排水したのですが、大水が出るともとの地形が出現してしまうのです。人間がどれだけ地形を変えようとも、自然の力というのは正直です。それを証明したのが三陸の津波でもあります。では、どうやって当時の人が磐を掘削したのか。上田先生は火によって磐を砕くという説を提示されています。江戸期にそうした工事をした記録もあるようです。大国主なのか秦氏なのかはわかりませんが、渡来人がそうした技術をもっていた可能性は高く、全国の古代国土開発に影響を与えているように思われます。なかなか面白くなってきましたが、大学院の授業はもう今週で終わりなので、機会があれば追いかけてみたいと思いました。今日は地域連携センターの会議があったのですが、センター前の棚に綺麗な生け花が飾ってあって、とても癒されました。いつもありがとうございます☆

1.JPG
2.JPG

3.JPG
│-│-│2018/01/17(水) 22:50

page top