アラカルト

死者さえも蘇る神宝とは

今日も雨…1日原稿執筆していましたが、なかなか筆が進みませんでした…どうも神様は降りてこないようです。さて、改元で大きな節目を迎えますね。改元といっても日にちが変わるだけですが、本当にそれだけでしょうか。改元における「祈りの力」というのは、人知を超えた何か不思議なエネルギーがあるのを感じます。その源となるものに「三種の神器」がありますが、私はそれより古いとされる「十種の神宝(とくさのかんだから)」が気になって仕方ありません。京都市伏見区には伏見神寳神社があり、ここに十種の神宝が納められているとされています。写真はこの神社のお守り。諸説あるとは思いますが、私はニニギとニギハヤヒが高天原から天降りる際に持ってきたのは、十種の神宝の方であると考えています。それも最低で2セットはあったはずなのです。その後の時代に「三種の神器」に置き換わってしまった。奈良の石上神宮にもかつては十種の神宝があったとされますが、今は祝詞のみが伝わります。「一・ヒト 二・フタ 三・ミ 四・ヨ 五・イツ 六・ム 七・ナナ 八・ヤ 九・ココノ 十・タリ ふるへ ゆるゆると ふるへ」と唱えながらゆっくりと神宝を振り動かせば、死者さえも蘇るとされています。石上神宮にあったものは、現在大阪市平野区にある楯原神社にあるとされています。戦国の混乱で石上神宮にあったものが持ち去られ、その後秀吉が取り戻し生国魂宮に鎮めましたが、幕末混乱期に再び持ち去られ、町の古道具屋で発見されこの神社に収まったと由緒で伝えています。昭和に入って、石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返還せずに今に至るようです。それから、物部氏と関わりのある秋田県大仙市の唐松神社にも十種の神宝の一部である奥津鏡・辺津鏡・十握剣・生玉・足玉が残されているそうです。一部というのが生々しい。しかも、鏡と玉が石製であると伝えられており、それが本当なら金属器文化以前の文化的痕跡といえるかと思います。興味深いことに、この唐松神社には、偽書と呼ばれる『物部文献』が保管されており、現在でもまだその一部しか公表されておりません。真書でも偽書的な部分があり、偽書でも真書的な部分があります。ところで、日本には古史古伝と呼ばれる偽書などに使われる神代文字(かみよもじ)と呼ばれるものが限りなくあります。それはなぜなのか。科学が発達した今日では呪術などを論じられることも少なくなりましたが、縄文時代の精神的根幹は恐らく呪術的なものであったろうと私は考えています。なぜ縄文時代には文字が使われず、その後神代文字というものがどうして開発されたのかをずっと考えていた時がありました。結論的に、縄文人は「言葉=言霊」を呪術的にとても重んじていて、たとえ外部から文字が入ってきたとしても(例:北海道異体文字等)定着はしなかった。むしろ、大事なことは言葉で伝える時代がものすごく長い時代続いたのだろうと考えるようになりました。しかし弥生時代以降、大陸から文字を含め様々な文化や人が入ってきた頃から、完全に拒むことができなくなり、独自の文字を考えはじめた。同じ文字でも多くの種類があるのは、文字に込められた魂を表現するため、使用目的に応じた文字が開発されたのではないか、という思いがあります。山・やま・ヤマでは、意味は同じだが、印象は全く異なります。なぜ、神社に行書体のような阿比留草文字が多く残されているかというと、あのくねくねした文字は祈りの文字として最適だったからではないかというのが私の考えです。つまり祝詞(呪言)に対して、祝字(あるいは呪字)というべきものをを生み出したのが神代文字だと思うようになりました。一方で、古事記・日本書紀時代の焚書から文書を秘匿するのに神代文字が使われた(作られた)可能性も高いわけです。いろんな側面から検討しなくてはいけないのですが、明確な根拠が少なすぎるので想像の域はでません。引退したら、こういう分野の研究を真面目にしてみたいと思ったりしています。かなり脱線しましたが、天皇とは神官の最高位にしてその人生をかけて祝詞を唱え続ける人物なのです。平成は世界の至る所で戦争やテロが絶えませんでした。むしろ多くなったと思います。令和では、世界中が平穏になることを心より祈りしたいと思います。明日はお伊勢さんに行きたい気分ですが、大混雑なんでしょうねぇ。今日のお菓子は粽でした☆

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│-│-│2019/04/30(火) 21:19

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