アラカルト

真経津と二見、精神的の浄化

今日もいろいろあって、もうすぐ電池が切れそうです。先日の二見ヶ浦ですが、面白い記録があります。それは偽書とされる『ホツマツタヱ』の中にあり、この地にかつて「真経津八咫鏡(まふつのやたのかがみ)」があったということです。伊勢神宮にある八咫鏡は別名として真経津鏡(まふつのかがみ)とも言われますが、その意味がよくわかっていません。真経津八咫鏡というのは、「人の目には見えない内面の真実を映す鏡」であり、仮の姿と本性との二つの姿を見分ける力をもっているとされています。その二面性を見るという意味で「二見」という地名の由来になっているとのことです。大祓の神である瀬織津姫は、この鏡を万人がいつでも見ることができるよう二見岩(あるいは輿玉神石か?)に置いたとされています。これが八咫鏡の原型となったようで、そう考えると伊勢に八咫鏡があり、なぜここが二見と呼ばれるのかという意味がよく分かります。ただ、ここに真経津八咫鏡は存在しません。また、残念ながら輿玉神石も埋没したまま見ることができません。ところで、「まふつ」という言葉の意味を考えてみると、ここにもある共通点を見いだすことができます。「まふつ」を「ま」と「ふつ」に分けてみると何となく見えてきます。「ま」を「真」とらえ、「ふつ」はよく「ふつふつ」という言葉に代表されるように「湧き上がる」というニュアンスがあります。つまり、「まほつ」は「真実が湧き上がる」→「本性を映す」という意味として理解ができ、単純に言葉から鏡の特性をうかがえるのです。そして面白いことに、この二見ヶ浦は禊ぎの地です。本来は「みそぎ浜」と呼ばれる場所だったようです。この場所は海から押し寄せる波が結構荒く、その強い波で身体を清めたようです。したがって瀧で身を清めることと同じ意味でとらえていたようです。恐らく、自分の身に何か悪いもを見たり感じたりした場合は、禊ぎを行い本来の自分に戻ってから参拝を行うということが当たり前に行われていたのかも知れません。身を清めるというのは、身体だけでなく、心も清らかにするということでもあります。二見ヶ浦では、海水に入って禊ぎをする代わりに、霊草とされる「無垢鹽草」を分けています。無垢鹽草とはこの浜の海中に生息している海草(アマモ)のことで、毎年5月21日の「藻刈神事(もがりしんじ)」で少量採取されたものを使っています。日本の古い信仰というのは、「精神的な浄化」というものを常に考えたシステムのように思えます。祓神である瀬織津姫が不動明王と習合していく背景には、「身を清める」ということと「煩悩を断ちきる」という思想との共通点があったからだと考えられます。

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│-│-│2019/06/13(木) 23:27

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