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アラカルト鉄舟さんの生き様京都にも緊急事態宣言がでるようです。授業も会議もつまらないリモートになりますが、耐えるしかありません。そういえば、去年はみんな買い溜めに走っていましたねぇ。◆また、鉄舟さんの話になります。彼は身長が188センチもある大男で、かつ剣の達人として知られますが、意外にも人を斬らず動物への殺生をも戒めた、心優しい人だったそうです。刀を抜かずに勝つ極意を身につけていたようです。この辺は塚原卜伝さんに通じるところがあります。また、その過程において禅についても探求を深めていきます。明治天皇の教育係となってからもその探求をやめず、月に2日ほどの休みに、静岡の三島にある竜沢寺の星定和尚さんのもとまで通い、禅を習っていたそうです。しかも、その日は仕事が終わった夕方から徒歩で片道約120キロを夜通し歩き、そのまま参禅して引き返したそうです。最初知ったときはかなり驚きましたが、事実のようです。往復240キロですよ!また、「書」においては生涯に100万枚という数を書き残したと言われています。人から揮毫を頼まれることが多く、彼は断ることなく書いたそうで、もらった人がそれを売ってしまっても生活の足しになれば、それが人助けだと考えていたようです。最後は若くして胃がんで亡くなるのですが、その前年の明治20年頃から体調を崩し、表向きは絶筆をしていたのですが、全生庵を通して申し込まれた分は例外として引き受けていたそうです。ただ、その分だけで8カ月間で10万1380枚という量だったそうです。1日400枚は書いていた計算になります。しかも、亡くなる直前まで、扇子4万本の揮毫を続けるのです。ちょっとやりすぎ。木村屋のあんパンが好物で、明治天皇に勧めるくらいだったらしく、このお店の看板も彼の書になり、現在でも使われています(写真は木村屋のHPより)。もらった謝礼は自分の懐には入れず、困窮した人に与えていたそうです。伊達直人さんも真っ青な御仁です。なので、鉄舟さん自身はいつも貧乏だったようですが、それが彼なりの武士道だったのだと思います。明治の中頃になると、東京で彼を歌った蹴鞠歌が流行ったそうです。
「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」 貧しくとも心は錦のように気高い人という意味でしょう。当時の庶民がいかに彼を尊敬していたのかが良く分かります。人間見た目ではないということ。経済第一主義のようになってしまった今の日本を見たらどう思うのだろう。あえて自己主張をしなかったがゆえに、今では他の志士に隠れてしまっているような存在ですが、彼の生き様について機会あるごとにもっと掘り下げてみたいと思っています。◆文章を書いていたら木村屋のあんパンを食べたくなりました。が、健康診断が終わるまで少し我慢します。あと、日々歩いて足を鍛えようとも思いました。 │-│-│2021/04/21(水) 21:28│
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