アラカルト

前方後円墳の形の謎(新説:「神奈備太陽説」)

今日は風が強く、体調もあまり良くなかったので、午後から行く予定だったイベントをキャンセルして、少しおとなしくしていました。さて、私は考古学者ではないですが、ここ数年ある説をずっと考えていました。それは前方後円墳は本当に前方が方墳で後ろが円墳なのか。「前方後円」という名前は、江戸時代に蒲生君平が最初に使ったとされますが、いまだにその形の由来がよく分かっていません。最近は壺説なるものも紹介されることがありますが、個人的にはまったく賛同できませんでした。昨日、その道の専門家である東北学院大学の辻秀人先生とお話する機会があったので、私の説をぶつけてみたら、「聞いたことがない」「新説だ」と言われましたので、とりあえずここに簡単に公表しておこうと思います。私は震災後、東北の博物館を回る中で、縄文人の精神について考えるようになり、一つは太陽信仰と、一つは山岳信仰でした。また、大昔から人の魂は山に帰ると考えており、形のいい山の上に大きな石を置き、そこに死者を祀ったという伝承もあり、神奈備山と太陽を神聖視していたことを認識しました。とくに昔はカレンダーがあるわけではなく、山から昇る太陽の位置を常に確認することが重要で、とくに夏至と冬至の時期を大切にしていたと考えています。ある時何かの切っ掛けで前方後円墳を見たときに、円の部分が太陽、方の部分は四角ではなく三角でありそれが神奈備山であることに気づきました。本来は縦にすべきところ、巨大すぎるため寝かしたものと判断しています。つまり、「前方後円墳」ではなく、その逆で「前円後三角墳」であり、もっと正確には「上円下三角墳」と言った方が良いでしょう。恐らく夏至の日に神奈備山から上がる瞬間、太陽が光り輝く場面を形にしたのだと考えます。現在でもダイヤモンド富士を神々しく感じるように、昔の人はそこに貴い人を祀ったのだと思います。仏像の光背に通じます。しかし、これまでの研究ではそうした山頂自体を発掘調査するということはあまりされてきませんでしたので、この説は今後の研究によって明らかになっていくもと考えています。ただ、そうした仮説を設定すると面白いことに弥生時代の祭祀についても説明がなんとなくつきます。弥生時代の特徴はなんといっても銅鐸です。それがいつの間にか消えて古墳が出てくるのですが、実はこの二つの形は同じようなものです。弥生時代にはまだ縄文時代の祭祀が残っていて、銅鐸がその意味を象徴していたように思われます。だから象徴として巨大化していくのだと考えます。古墳時代に入り、大陸を意識してか巨大墓をつくる文化へと変わっても、皆納得できなかったと思います。ある時誰かが「上円下三角墳」をつくったら、恐らく誰もがその形に合点がいったに違いありません。大陸文化と日本古来の葬送が合体した瞬間で、だからこそ日本以外にあり得ない形なのだと思われます。ですので石室も山の頂点でなくてはなりません。あるいは、石材を調べていけば山の巨石と古墳の石室の材料が似通っている可能性があります。また、古墳の配置も夏至・冬至の関係から読み解くことができるのではないかと考えています。日本において、神道も仏教も山に対する信仰は現在でも行われており、太陽は天照大御神として祀られているほか、国旗そのものです。また、少し飛躍するかもしれませんが、この形はまさに「日本(ひのもと)」をイメージさせる造形でもあるのです。あくまでも検証しにくい一つの仮説ですが、結構いい線いっていると思っていますし、神奈備山を文化遺産としてきちんと保護すべきとも考えています。最近開発で破壊される例がでてきていて、とても悲しく思います。この仮説が契機になって、さらなる研究が進めばと思います。私は説を提示するだけですが(笑)一応この説を「神奈備太陽説」と命名しておきたいと思います。お昼はスマイル・キッチン・ジクにて薬膳健康ランチを。弱っていた身体に元気をいただきました☆

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│-│-│2016/12/10(土) 23:56

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