アラカルト

熊野のミステリー −謎の石垣−

明日はかなり寒くなるそうです。これ以上寒くなるのはやだなぁ。今年も残すところあと1か月。年賀状まだ整理していない…。さて、今日の日経新聞・夕刊を読んでいたら、「熊野の石垣」についてかなり詳しく書かれていました。が、反論したくなったので、ここに書いておきます。熊野の石垣はほとんど知られていない存在ですが、恐らく国内の石垣列の中では最延長であろうと思われる50キロを超える長さがあるのです。記事では「シシ垣」説が有力として取り上げられ、地元では来月に「シシ垣サミット」が開催されるそう。しかし、ちょっと待ってほしい。全国にいろんなシシ垣はありますが、こんな長さのシシ垣を誰がつくるのでしょうか。しかも、農地もない急斜面にまで作られています。後世に「シシ垣として利用された」事実はあるかと思いますが、私は防御のために政策として作ったものとの仮説を持っています。かつてはニシキトベが神武軍の防御のためとも思いましたが、これだけのものを短期間で作るのは難しい。むしろ、征服したものが「何かを守るために」沿岸部からの防御を念頭に作ったものと考える方が自然なのではないかと考えるようになりました。つまり、かつて神武の支配下になった者を使役として石垣を作らせたのではないか。それが私の仮説です。それが被差別部落の発生とも関わるとも考えています。何を守っていたのか、それは鉱山であり、水銀なのではないか。徐福から神武の時代において、水銀(丹)は不老不死の薬として今のダイヤモンドよりも価値があったと考えられています。ニシキトベのニシキは「丹敷」と書きますが、これは水銀を持つ者、つまり水銀の支配者とも考えられ、ここから 丹生都姫神との関係も見えてきます。ニシキトベが熊野で神武に惨殺された背景には水銀覇権があったと考えるのが最も納得できます。もちろん、これは神武実在論に立っての見解ですので、なかなか受け入れてもらえない部分も大きいかもしれません。ただ、きちんと調査もせずに「シシ垣論」を定着化させるのはどうかと思っています。まだ未確定な部分が多いわけなので、「熊野のシシ垣」と断定はせずに調査の結果がわかるまでは「熊野の石垣」と表記しておくべきというのが私の考えです。ちょっと記事の内容やシンポジウムの姿勢に納得がいかなかったので、あえて書き残しておきます。これを契機に早く文化財指定をし、地元できちんとした調査団が組織されることを願うばかりです。今日のお菓子は学内に出展されていた如月さんの大判焼きでした☆寒い時期には暖かいものが食べたくなりますね。

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│-│-│2017/11/30(木) 22:33

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