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アラカルト西郷・鉄舟会談の舞台裏良いお天気でしたが、3月までにやる予定だった原稿校正が残っていたので、人のいない間にコソコソと作業。今日は神様が降りてきて下さったので、とりあえずの抱えている分が全て完了しました。スッキリ☆◆さて、昨日の鉄舟さんの話に戻りますが、私は彼がどうやって静岡にいる西郷さんのところに辿り着けたのかがずっと疑問でした。どんなに腕の立つ武士で、薩摩藩士の益満休之助さんが付き添っていたとしても、敵がウジャウジャいる所に疑われずに行けたのでしょうか?調べるうちにその疑問が解消される記事に出会いました。静岡・由比宿にあった望嶽亭藤屋という旅館の伝承です。伝承なので史実とは認められていないようですが、地元では実は益満さんが三島で怪我をし、最後は鉄舟さん一人で静岡に向かっていたと伝わっています。それで、由比の薩埵峠で官軍に不審に思われ追われてしまい、引き返さざるをえなくなります。そして望嶽亭藤屋に逃げ込み、ここで漁師の服に着替え小舟で脱出し、海路で清水まで行ったのです。清水では旅館の当主・松永七郎平さんの信頼できる仲間である清水次郎長さんの元で身を隠し、翌日そこで武士の格好に着替え、東海道を使わず久能街道から駿府に入り、次郎長とその手下に守られながら西郷さんのいる場所(駿府伝馬町の桐油屋松崎源兵衛方)にたどり着いたとのこと。とても道理にかなっています。というか、生々しい話です。しかも、この旅館には鉄舟さんが慶喜公から預かったとされるフランス式のピストルが残されているんです。現在、資料館のようになっているらしく展示もされているようです。あまりこのピストルについての記事がなかったのですが、調べてみますと当時フランスで開発されたばかりの10連発のリボルバーでした。今なら最新式のレーザーガンのようなものですから、一般人がとても買えるものではありません。宿の伝承によれば、その後鉄舟さんが一度宿に寄ったことがあり、ご主人がピストルを返そうとしたところ、「今はもう平和だから要らない」といって置いていったそう。明治維新後に、彼は徳川家の人とともに静岡に来て、静岡藩の藩政補翼となります。その頃から清水次郎長を重用したようですが、会談時の恩義があったからではないでしょうか。それにしても、私は鉄舟さんの精神力もそうですが、この時旅館のご主人が彼を匿う覚悟をした人間性にも感服しました。あの時、宿から追い出され、官軍に殺されていたら、無血開城はなかったかも知れません。歴史の運命とは面白いものです。正式な話として残ってこなかったのは、宿屋のご主人を守るために鉄舟さんがあえて人に語らなかったのだと私は思います。武士らしい。ちなみち、駿府で会談した時、西郷さんは40歳、鉄舟さんは32歳でした。事前に、天璋院・静寛院・輪王寺宮の歎願があったにも関わらず、西郷さんは受け入れはしなかったのに、初対面で年下の下級武士の話を聞くだけでなく、惚れ込んでしまったのです。しかも、西郷さんはその後明治天皇の教育係として鉄舟さんを指名するのです。彼の思想は天皇家に影響を与えただけでなく、その後の教育勅語の草案にまで影響が及ぶのですが、時代の流れの中で武士の思想はほぼ消えていく運命となります。◆お昼はキッチンジクさんに行こうと思ったんですが生憎休み…。入ったことのないお店に行こうと思い、ロッジポールというお店でステーキプレートランチを頂きました。ここのお肉はとっても柔らかく、メチャ美味しかったです☆お肉を食べるならここですわ。夕方、東山の夕焼けが綺麗でした。
│-│-│2021/04/10(土) 22:23│
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