Access: |
アラカルト部品再生の技術ついに緊急事態宣言が発出されてしまいました。これでGWに帰省は難しくなってしまいました…。落ち着いたら帰ろう。◆制作依頼していた部品が到着しました。ジムニーの部品(サイドウインカー)ですが、恐らくジムニストの方でもこの部品を見た人は限られると思います。これはヨーロッパで使用されていたもので、国内では平面のものしかありません。アメリカ仕様でかなり出っ張ったものはありますが、あれはかなり不格好なのです。こちらは、角度とラインが美しく、誰がデザインしたのか知りたいくらいです。最近の車はこういう部分にオリジナル性がなくなっています。長年海外のオークションサイトを覗いていてやっと見つけたんですが、1個だけで、しかもヒビが入っていたので、専門会社にレプリカをいくつか制作して頂きました。そこそこのお値段と1ヶ月くらいの期間が必要でしたが、希少的なものやし、あくまで趣味ですので。保存用に作ってみただけですので、自分の車に装着するかは不明です。壊れていても、型取りさえできればこうした部品でも再生できるんです。ま、関心を持つ人は少ないと思いますが。◆夜に録画したカンブリア宮殿を観ました。佐藤可士和さんが2回に渡って取り上げられていて、とても面白かったです。ロゴデザインや空間デザインを担当しているクリエイティブディレクターさんです。デザイン思考やアート思考関連で最近結構話題になりますが、もともとはCIやスペースデザインと呼んでいた分野で、私が前にいた会社でやっていたことです。彼の凄いところは一人でやってしまうことです。会社だとチームでそれぞれの能力を結集して行います。ただ、こういう分野は個人でやった方が統一感がとれ、いい仕事ができると思います。それで食べていけるかが問題なのです。団地再生の話は地域振興とも関わり、大いに共感できました。問題は継続性と展開性だと感じました。彼の仕事は、昨日まで国立新美術館で大々的な展覧会が行われていて、いつかのタイミングで行きたいと思っていましたが、このコロナで結局行けずじまいです。ぜひとも関西に巡回して頂ければと思います。私はデザイナーではないので、よりコンセプチャルな部分での新規性を常に考えられればと思っています。
│-│-│2021/04/25(日) 21:54│
アラカルトもうすぐ田植え13対1って、今年の阪神は何かが違いますね。ただ、緊急事態宣言の影響でしばらく無観客となるのでしょうか。大学の授業も急な変更が毎週のように続くので、なんだか落ち着きません。人の少ない土曜日に、朝から追加の校正作業をセッセと行いました。やっぱり静かだと作業が3倍速い。なんとか夕方までに完了できてスッキリ☆◆お昼は、大学の下にあるカフェ・ドゥ・ヴェールさんでカレーランチを。週に1日はカレーを食べたくなります。今日は店内で何人か先生方にお会いしました。近いし美味しいからみんな来ちゃいますね。◆駐輪場の下に田圃があるんですが、水が張られていました。もうすぐ田植えですね。福島でやっていたのが懐かしい。福島といえば、飯舘村の田圃はその後どうなっているのだろうか。そういえば、今月から正門近くに大きな大学のロゴが登場しています。インスタ映えスポットなのでしょうけれど、最近の流行なのでしょうか。ここまでやるなら、大学のキャラクターも一緒に置いておけばいいと思いました。
│-│-│2021/04/24(土) 21:12│
アラカルト武士の死に様インドの感染者が1日で33万人とは…。新たなステージに入っているような気がします。というか、ウイルスも生き残るために進化しているのでしょう。あるいは誰かがウイルステロでも仕掛けているのか。今まで以上の感染対策が必要になるかも知れません。◆さて、武士道の続きというか、最後になります。今日は人生の終わり方のお話。山岡鉄舟さんは、若くして胃癌を煩ってしまうのですが、その死に様も壮絶だったのです。若い頃からお酒が強かったようで、酒豪と飲み比べをやったりなどしていたそうです。一度に7升も飲んだことがあるのだとか。そのせいか、30代中頃から胃痛を覚えることが多くなり、50歳(明治19年)になった頃から痛みが酷くなり、翌明治20年の8月には、なんと右の脇腹に大きなしこりができてしまいます。だんだん食べ物をとることが難しくなり、明治21年の2月からは流動食に。明治天皇は、たいそう彼を心配して何度もお医者さんやお見舞い品を遣わされたとのこと。当時は痛みを止める方法がなかったようでとても痛かったはずなのですが、全く痛い素振りは見せなかったようです。お医者さんが、「先生はおかしいねえ。苦しいはずなのにどうしていつもニコニコしていられるんですか?」と聞くと、鉄舟さんは「胃癌、胃癌というけれど、これは胃癌ではなくニコリじゃもの」と平然として笑顔で答えていたそうです。しかし、7月に入るといよいよ病状が悪化し、死期が近づいたことを自覚した7月8日に門人を集めて最後の指南をします。7月17日の夜には、尋常ではない痛みが襲いお医者さんが駆けつけますが、すでに胃に穴が空き急性腹膜炎を併発したようで、手の施しようがない状態になってしまいます。額に吹き出る汗が半紙に続けざまに落ちたそうですが、鉄舟さんは歯をくいしばってその激痛に夜通し耐えたとのこと。重態になったということでお見舞客が殺到し、家の中は身動きができないほどになったそうです。そうした状況を意に介さず、彼は布団にもたれて談笑し、普段と変わらない様子を保っていたそうです。なんという人でしょう。そして、明治21年7月19日の午後7時30分、自らの死を感じとると、浴室に行き、身を清めて、白衣に着替えて袈裟をかけ、午後9時に一度病床に正座した後、皇居の方に向かって結跏趺座をされます。9時15分、妻子、親類、友人や門弟たちに笑顔を見せながら、そのままの姿で穏やかに逝ったようです。享年52歳(数えで53歳)。顔はわずかに笑みを含み端然と結跏趺坐をしていたので、弔問に来た方々は本当に亡くなっているのかを疑ったほど。また、次々に訪れる弔問者と対面できるよう、遺体は暫くそのままにしておこうという意見もあったようですが、夏の暑い時期でもあったので、翌日の夜に納棺されたとのことです。この様子は、勝海舟さんが後に以下の文章に残しています。
【山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行った。明治二十一年七月十九日のこととて、非常に暑かった。おれが山岡の玄関まで行くと、息子が見えたから「おやじはどうか」というと、「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢人も集まっている。その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している。おれは座敷に立ちながら、「どうです。先生、ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして、「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた。それでおれも言葉を返して、「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った。少しく所用あってのち帰宅すると、家内の話に「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので、「はあ、そうか」と別に驚くこともないから聞き流しておいた。その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ。そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ。なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ。絶命してなお、正座をなし、びくとも動かなかったそうだ。】 葬儀は、7月22日に豪雨の中で行われました。事前に明治天皇から内意があったので、四谷の自邸を出た葬列は、皇居の前で10分ほど止まり、天皇は高殿から葬列に目送されました。彼の死後、門人である村上俊五郎さんは殉死の恐れがあるというので警察署に保護されたほどですが、9月になって3人も墓前で殉死されています。どれほど深く慕われていたのかがよく分かります。 <辞世の句>「腹張って 苦しき中に 明烏」 さすがに「苦」の文字が入っているのが正直。結跏趺坐で亡くなった人物として思い出されるのは、修験道を守り抜き「那智の瀧」から捨身入定した林実利さんです。捨身後、なかなか遺体が見つからず、滝壺から探し出されたときでもまだ結跏趺坐のままだったそうです。彼が亡くなったのは明治17年ですから、鉄舟さんとほぼ同じ時期に生きています。武士道と修験道、道は違いますし今の時代にはまったく理解されないかも知れませんが、明治のはじめ頃には、まだこうした底知れぬ胆力のある日本人がいたことを忘れないようにしたいと思います。(※写真はwikipediaより) │-│-│2021/04/23(金) 22:48│
アラカルト守山の新しい拠点施設車載温度計で31度を記録!もはや夏です。ジャケットを着ているのも苦しかった。◆今日は朝から守山。ルシオール音楽祭の委員会です。ほんとは授業があって欠席の予定でしたが、今週は急遽休講となったので参加。今月の17日にオープンしたばかりの「もりやまエコパーク・交流拠点施設」という場所での開催。施設のお披露目も兼ねていました。この建物のすぐ横に焼却施設と最終処分施設があるんですが、守山の場合、その施設の老朽化が前から課題で、数年かけてリニューアルが決定し、合わせて周辺整備計画の一環としてこのエコパークが誕生しました。温水プールはもちろんのこと、トレーニングルーム、温浴施設があり、これらは1日利用もできれば、市民であれば月額5000円で使い放題です。また、元からあった体育館やレストスペースに加え、工作室、環境学習室、交流・学習コーナー、キッチンスペース、リユースコーナーなどがあり、とても充実していますし、綺麗で美術館のようでした。うらやましい。また一つ、守山に新しい拠点施設が誕生したわけです。会議では、結局現状では運営方法を考えながらも、市長はできれば開催する方向で検討したいとのことでした。が、今後どうなるかは感染状況次第でしょう。何もかもメチャクチャで、ほんとに困ります。来週学内で事前説明会を開催する予定で進めていましたが、コロナでできなくなったので、今後の学生スタッフ募集をどうするかが私の深刻な課題です。エコパークの場所が守山の中心市街地よりずっと琵琶湖よりにあるので、今日は堅田を経由するルートで行ってみました。帰りはバイパスを使わず一般道で帰ってきましたが、ここ数年湖西方面に行っていなかったので、ずいぶん風景が変わっていました。たまにはルートを変えて見るのもいいですね。◆お昼はエコパークからほど近いところに台湾料理のお店を見つけたので、そこで麻婆茄子定食を。また、会議の終わりにパンを頂いたので、職場に帰ってから食べたら、なんとあんパンでした。昨日からあんパン食べたいと思っていたのでビックリ。甘いものは制限している最中ですが、食べ始めてしまったので、がっつり頂きました。
│-│-│2021/04/22(木) 21:20│
アラカルト鉄舟さんの生き様京都にも緊急事態宣言がでるようです。授業も会議もつまらないリモートになりますが、耐えるしかありません。そういえば、去年はみんな買い溜めに走っていましたねぇ。◆また、鉄舟さんの話になります。彼は身長が188センチもある大男で、かつ剣の達人として知られますが、意外にも人を斬らず動物への殺生をも戒めた、心優しい人だったそうです。刀を抜かずに勝つ極意を身につけていたようです。この辺は塚原卜伝さんに通じるところがあります。また、その過程において禅についても探求を深めていきます。明治天皇の教育係となってからもその探求をやめず、月に2日ほどの休みに、静岡の三島にある竜沢寺の星定和尚さんのもとまで通い、禅を習っていたそうです。しかも、その日は仕事が終わった夕方から徒歩で片道約120キロを夜通し歩き、そのまま参禅して引き返したそうです。最初知ったときはかなり驚きましたが、事実のようです。往復240キロですよ!また、「書」においては生涯に100万枚という数を書き残したと言われています。人から揮毫を頼まれることが多く、彼は断ることなく書いたそうで、もらった人がそれを売ってしまっても生活の足しになれば、それが人助けだと考えていたようです。最後は若くして胃がんで亡くなるのですが、その前年の明治20年頃から体調を崩し、表向きは絶筆をしていたのですが、全生庵を通して申し込まれた分は例外として引き受けていたそうです。ただ、その分だけで8カ月間で10万1380枚という量だったそうです。1日400枚は書いていた計算になります。しかも、亡くなる直前まで、扇子4万本の揮毫を続けるのです。ちょっとやりすぎ。木村屋のあんパンが好物で、明治天皇に勧めるくらいだったらしく、このお店の看板も彼の書になり、現在でも使われています(写真は木村屋のHPより)。もらった謝礼は自分の懐には入れず、困窮した人に与えていたそうです。伊達直人さんも真っ青な御仁です。なので、鉄舟さん自身はいつも貧乏だったようですが、それが彼なりの武士道だったのだと思います。明治の中頃になると、東京で彼を歌った蹴鞠歌が流行ったそうです。
「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」 貧しくとも心は錦のように気高い人という意味でしょう。当時の庶民がいかに彼を尊敬していたのかが良く分かります。人間見た目ではないということ。経済第一主義のようになってしまった今の日本を見たらどう思うのだろう。あえて自己主張をしなかったがゆえに、今では他の志士に隠れてしまっているような存在ですが、彼の生き様について機会あるごとにもっと掘り下げてみたいと思っています。◆文章を書いていたら木村屋のあんパンを食べたくなりました。が、健康診断が終わるまで少し我慢します。あと、日々歩いて足を鍛えようとも思いました。 │-│-│2021/04/21(水) 21:28│
|