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アラカルトアート×ビジネス新世代もうすぐGWですね。どこにも行けない感じですが、だからこそできることを考えてみようと思います。って、寝てばっかりだったりして。でも、もう入院はしたくない。◆ところで、今週の日経新聞朝刊の文化欄では、「アート×ビジネス新世代」と題してユニークな取り組みが紹介されていて面白いです。美術作品はどうしても美術館で鑑賞するといった感じになりがちですが、本来はもっと身近に接する環境がほしいところです。ただ、日本はそうした文化芸術の環境創造に前向きではなく、未だに施設内での文化施設政策が主流です。また、若手芸術家も職業としてやっていくには日本はとても生きづらいと思いますし、私もいくつかの自治体で支援策に関わる機会がありますが、対策が不十分といわざるを得ません。そいういう意味で経済界がこうした文化・芸術を支援する動きというのは期待ができますし、日経新聞が取り上げる意味をとても感じます。その他、今年に入って週刊東洋経済さんが「アートとお金」をテーマに特集を組んだことがあり、アートとビジネスがちょっとしたムーブメントになるかもしれません。こうした話題は、実は1980〜1990年代のバブル期にかなり盛り上がったんですが、経済が冷えてからはどんどん萎んでしまいました。今は、多少は株価が上がってきているとはいえ、かつての状況とは雲泥の差があります。ですので、こうした時代にこそ本当の文化環境が育つような気がしています。取材に東京に行きたいけど、行けな〜い。しばらく辛抱ですね。◆このところ、ハナミズキが美しい。
│-│-│2021/04/27(火) 21:42│
アラカルト有形文化財に浸かるみんな慣れてしまったようで、宣言が出ても効果は限定的なようです。5月末のイベント開催が微妙で不安だらけ。◆旅行雑誌の表紙をチラッと見たときに、「アレっ」と思って見返したら江ノ島・岩本楼さんの浴室でした。確かに表紙になってもおかしくないモチーフです。思わず購入。以前、「テルマエ・ロマエ」という映画がありましたが、まさにあの映画に出てきそうな感じなのです。その名も「ローマ風呂」です。昭和5年(1930年)に作られ、90年以上が経過しており、現在はなんと国の登録有形文化財になっているんです。国の文化財でお風呂に入れるのはここくらいでしょうか。毎年年末に友人とここで過ごすのが恒例行事でしたが、去年はコロナで帰省すらできませんでした。今年は行きたい。◆今日のお月様はまん丸ですね☆なんかとっても大きな感じがして、手でつかめそう。なんてね。宇宙ステーションってどこ辺にあるのでしょうか。
│-│-│2021/04/26(月) 22:29│
アラカルト部品再生の技術ついに緊急事態宣言が発出されてしまいました。これでGWに帰省は難しくなってしまいました…。落ち着いたら帰ろう。◆制作依頼していた部品が到着しました。ジムニーの部品(サイドウインカー)ですが、恐らくジムニストの方でもこの部品を見た人は限られると思います。これはヨーロッパで使用されていたもので、国内では平面のものしかありません。アメリカ仕様でかなり出っ張ったものはありますが、あれはかなり不格好なのです。こちらは、角度とラインが美しく、誰がデザインしたのか知りたいくらいです。最近の車はこういう部分にオリジナル性がなくなっています。長年海外のオークションサイトを覗いていてやっと見つけたんですが、1個だけで、しかもヒビが入っていたので、専門会社にレプリカをいくつか制作して頂きました。そこそこのお値段と1ヶ月くらいの期間が必要でしたが、希少的なものやし、あくまで趣味ですので。保存用に作ってみただけですので、自分の車に装着するかは不明です。壊れていても、型取りさえできればこうした部品でも再生できるんです。ま、関心を持つ人は少ないと思いますが。◆夜に録画したカンブリア宮殿を観ました。佐藤可士和さんが2回に渡って取り上げられていて、とても面白かったです。ロゴデザインや空間デザインを担当しているクリエイティブディレクターさんです。デザイン思考やアート思考関連で最近結構話題になりますが、もともとはCIやスペースデザインと呼んでいた分野で、私が前にいた会社でやっていたことです。彼の凄いところは一人でやってしまうことです。会社だとチームでそれぞれの能力を結集して行います。ただ、こういう分野は個人でやった方が統一感がとれ、いい仕事ができると思います。それで食べていけるかが問題なのです。団地再生の話は地域振興とも関わり、大いに共感できました。問題は継続性と展開性だと感じました。彼の仕事は、昨日まで国立新美術館で大々的な展覧会が行われていて、いつかのタイミングで行きたいと思っていましたが、このコロナで結局行けずじまいです。ぜひとも関西に巡回して頂ければと思います。私はデザイナーではないので、よりコンセプチャルな部分での新規性を常に考えられればと思っています。
│-│-│2021/04/25(日) 21:54│
アラカルトもうすぐ田植え13対1って、今年の阪神は何かが違いますね。ただ、緊急事態宣言の影響でしばらく無観客となるのでしょうか。大学の授業も急な変更が毎週のように続くので、なんだか落ち着きません。人の少ない土曜日に、朝から追加の校正作業をセッセと行いました。やっぱり静かだと作業が3倍速い。なんとか夕方までに完了できてスッキリ☆◆お昼は、大学の下にあるカフェ・ドゥ・ヴェールさんでカレーランチを。週に1日はカレーを食べたくなります。今日は店内で何人か先生方にお会いしました。近いし美味しいからみんな来ちゃいますね。◆駐輪場の下に田圃があるんですが、水が張られていました。もうすぐ田植えですね。福島でやっていたのが懐かしい。福島といえば、飯舘村の田圃はその後どうなっているのだろうか。そういえば、今月から正門近くに大きな大学のロゴが登場しています。インスタ映えスポットなのでしょうけれど、最近の流行なのでしょうか。ここまでやるなら、大学のキャラクターも一緒に置いておけばいいと思いました。
│-│-│2021/04/24(土) 21:12│
アラカルト武士の死に様インドの感染者が1日で33万人とは…。新たなステージに入っているような気がします。というか、ウイルスも生き残るために進化しているのでしょう。あるいは誰かがウイルステロでも仕掛けているのか。今まで以上の感染対策が必要になるかも知れません。◆さて、武士道の続きというか、最後になります。今日は人生の終わり方のお話。山岡鉄舟さんは、若くして胃癌を煩ってしまうのですが、その死に様も壮絶だったのです。若い頃からお酒が強かったようで、酒豪と飲み比べをやったりなどしていたそうです。一度に7升も飲んだことがあるのだとか。そのせいか、30代中頃から胃痛を覚えることが多くなり、50歳(明治19年)になった頃から痛みが酷くなり、翌明治20年の8月には、なんと右の脇腹に大きなしこりができてしまいます。だんだん食べ物をとることが難しくなり、明治21年の2月からは流動食に。明治天皇は、たいそう彼を心配して何度もお医者さんやお見舞い品を遣わされたとのこと。当時は痛みを止める方法がなかったようでとても痛かったはずなのですが、全く痛い素振りは見せなかったようです。お医者さんが、「先生はおかしいねえ。苦しいはずなのにどうしていつもニコニコしていられるんですか?」と聞くと、鉄舟さんは「胃癌、胃癌というけれど、これは胃癌ではなくニコリじゃもの」と平然として笑顔で答えていたそうです。しかし、7月に入るといよいよ病状が悪化し、死期が近づいたことを自覚した7月8日に門人を集めて最後の指南をします。7月17日の夜には、尋常ではない痛みが襲いお医者さんが駆けつけますが、すでに胃に穴が空き急性腹膜炎を併発したようで、手の施しようがない状態になってしまいます。額に吹き出る汗が半紙に続けざまに落ちたそうですが、鉄舟さんは歯をくいしばってその激痛に夜通し耐えたとのこと。重態になったということでお見舞客が殺到し、家の中は身動きができないほどになったそうです。そうした状況を意に介さず、彼は布団にもたれて談笑し、普段と変わらない様子を保っていたそうです。なんという人でしょう。そして、明治21年7月19日の午後7時30分、自らの死を感じとると、浴室に行き、身を清めて、白衣に着替えて袈裟をかけ、午後9時に一度病床に正座した後、皇居の方に向かって結跏趺座をされます。9時15分、妻子、親類、友人や門弟たちに笑顔を見せながら、そのままの姿で穏やかに逝ったようです。享年52歳(数えで53歳)。顔はわずかに笑みを含み端然と結跏趺坐をしていたので、弔問に来た方々は本当に亡くなっているのかを疑ったほど。また、次々に訪れる弔問者と対面できるよう、遺体は暫くそのままにしておこうという意見もあったようですが、夏の暑い時期でもあったので、翌日の夜に納棺されたとのことです。この様子は、勝海舟さんが後に以下の文章に残しています。
【山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行った。明治二十一年七月十九日のこととて、非常に暑かった。おれが山岡の玄関まで行くと、息子が見えたから「おやじはどうか」というと、「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢人も集まっている。その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している。おれは座敷に立ちながら、「どうです。先生、ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして、「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた。それでおれも言葉を返して、「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った。少しく所用あってのち帰宅すると、家内の話に「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので、「はあ、そうか」と別に驚くこともないから聞き流しておいた。その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ。そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ。なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ。絶命してなお、正座をなし、びくとも動かなかったそうだ。】 葬儀は、7月22日に豪雨の中で行われました。事前に明治天皇から内意があったので、四谷の自邸を出た葬列は、皇居の前で10分ほど止まり、天皇は高殿から葬列に目送されました。彼の死後、門人である村上俊五郎さんは殉死の恐れがあるというので警察署に保護されたほどですが、9月になって3人も墓前で殉死されています。どれほど深く慕われていたのかがよく分かります。 <辞世の句>「腹張って 苦しき中に 明烏」 さすがに「苦」の文字が入っているのが正直。結跏趺坐で亡くなった人物として思い出されるのは、修験道を守り抜き「那智の瀧」から捨身入定した林実利さんです。捨身後、なかなか遺体が見つからず、滝壺から探し出されたときでもまだ結跏趺坐のままだったそうです。彼が亡くなったのは明治17年ですから、鉄舟さんとほぼ同じ時期に生きています。武士道と修験道、道は違いますし今の時代にはまったく理解されないかも知れませんが、明治のはじめ頃には、まだこうした底知れぬ胆力のある日本人がいたことを忘れないようにしたいと思います。(※写真はwikipediaより) ![]() │-│-│2021/04/23(金) 22:48│
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